新橋で出会った日本酒「紀伊国屋文左衛門」

2014年11月某日、新橋・SL広場やニュー新橋ビルを含む1万平方メートルのエリアに、大型再開発事業が立ち上がっていることを、朝日新聞などが報じた。地元地権者らがつくる協議会が、野村不動産とNTT都市開発を開発業者に選び、この一帯に複数の超高層ビルを建てる計画が動き始めた、というものだった。

「サラリーマンのオアシス」として知られるニュー新橋ビルなどがある一帯は、戦後日本最大の闇市「新生マーケット」があった場所である。ニュー新橋ビルは、闇市の跡地にあったバーや飲食店が入居して、1971年に開業した。40年以上経った今なお、新橋駅周辺には当時の混沌とした昭和の名残りがある。一日の仕事を終えた身体は、適度な雑音と猥雑な空気を欲しているのかもしれない。そこに身をおくと、ほっとなごむのだ。だから、新橋に足が向く。超高層ビルのない新橋に……。

陽が傾き、新橋駅に降り立つ。せっかくの新橋、気取らず気張らず、身も心も解放したい。青々とした畳の匂いや、磨き抜かれた白木のカウンター、冷たさが唇に伝わってくるほどの繊細な酒器で日本酒を呑むのももちろん最高だが、新橋らしい店を探すとしよう。とはいえ、実際に混沌としたこの街で、自分の居場所をみつけるのはそう容易いことではない。同僚や取引先に連れていかれた店に、もう一度行くパターンが圧倒的に多くなる。でも、自分の行きつけの店で、ゆっくり日本酒のグラスを傾けたい。そう思ったら、「魚バカ一代」に足を運んでみてほしい。

魚バカ一代

烏森口を出て、ニュー新橋ビルを右手に見ながら交差点を左折、3つめの路地を右に入る。しばらく行くと、1つめの角の先、左手に「魚バカ一代」の提灯が見えてくる。駅から歩いて3~4分だ。木戸のようなドアを開けると、日本酒の一升瓶がズラリと並んでいるのが見える。右正面にカウンター席があるので、一人でふらりと立ち寄って呑めるのもうれしい。左手は、靴を脱いで上がる半個室の座敷。宴会にちょうどいい席だ。階段を上ると、隠れ家のような落ち着いた空間があり、入口の右手にはテーブルが2卓。全体的にこじんまりとした、温かみのある店だ。

ビールや焼酎、酎ハイなどももちろん揃えているが、日本酒のラインアップがなかなかいい。常時用意されている25~30種類ほどに、季節限定の日本酒が加わる。ときにはかなり希少価値の高い銘柄が入ることもある。

紀伊国屋文左衛門

さて、一杯目になにを呑もうかと考えたとき、ふと目にとまったのが「紀伊国屋文左衛門  五百万石全量使用 純米」だった。「すっきりとした辛口です。私はこのお酒、大好きです」と、店長のハルカさん。店で扱っている酒はすべて試飲しているという。しかも、自身も日本酒が好きなのだと。なるほど……、ハルカさんの舌はかなり的確だということが、このあと徐々に明らかになっていく。テーブルに枡、その中にグラスを置くと、「紀伊国屋文左衛門」を一升瓶からなみなみと注いでくれた。もちろん「注ぎこぼし」だ。しかも枡までなみなみと。この「注ぎこぼし」には賛否両論あるが、希望すれば徳利に入れてくれる。

「紀伊国屋文左衛門 五百万石全量使用 純米」は、国際的な日本酒コンテスト「インターナショナル・サケ・チャレンジ 2011」で銀賞を受賞した酒である。和歌山県にある醸造元・中野BCでは、2006年度の仕込み分から、杜氏はじめ蔵人による極力少量の手仕込みにこだわっている。日本三大酒米の一つと称される「五百万石」は、雑味が少なく、キレのある酒を生み出す。じっくりと低温で発酵させることで、すっきりとした味わいに芳醇な香りが加わった。真鯛などの白身の刺身とよく合う酒だ。「魚バカ一代」では、自家製のしょう油とポン酢を出してくれるので、そのまろやかな風味が日本酒の香気を一層引き立てる。

魚バカ一代

日本酒にはやはり魚貝。ここでは、その日の鮮魚を木箱に入れて席までもってきてくれる。刺身もいいけど、旬の魚の塩焼きや煮付けもまた格別……。素材を見ながら献立を決めるのは楽しいものだ。イカわたと味噌を和えたソースを添えた「イカの味噌わた焼き」をはじめ、日本酒にぴったりなつまみもある。

さあ、次は、島根の李白酒造が醸した「やまたのおろち 超辛・特別純米」か、北へ飛び、山形県鶴岡の亀の井酒造「くどき上手 ばくれん」か。数多の銘柄から選ぶ、そしてお気に入りの一杯に出合う。まさに至福のときだ。かつて浅草にあった酒亭「松風」を思い出す。「お一人さま3本までとさせていただきます」の貼り紙をはじめ、多くの伝説に彩られた店だ。日本酒のたしなみ方を教えてくれた店だった。壁に貼られた品書きから、はじめて呑む銘柄を選んで味わう。さっきのほうがおいしいかな、いや、この前呑んだお酒のほうが好みかな……。こんな経験を繰り返して、自分の好きな味が定まっていった。「魚バカ一代」は、もちろん「松風」とは趣きがまったく違う。でも、日本酒と魚を気取らず気張らずに愉しめる、居心地のいい場所だ。